中西輝政著 「国民の文明史」を読んでいます。
中西輝政の「国民の文明史」を時代とともに読んでいます。
江戸、明治時代と読んで、次は大正時代です。大正時代は、1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。短い期間ですが、日本にとっては重要な動きがあった時代だそうです。
明治の成功の、次の世代。その成功が息苦しくて、外部からはさらに欧化の流れが強まり、個人主義に傾く時代、徴兵忌避が横行する時代となってゆきます。そして、その流れは、明治の「和魂洋才」のアンチとして「洋魂洋才」を志向するようになり、大正デモクラシー(共産主義に傾斜する)、白樺派が代表する知識人の現れ、へとつながってゆきます。
大正デモクラシーという強力な欧化の流れを換骨奪胎することなく、取り入れてゆきました。
換骨奪胎(かんこつだったい); 骨を取り換え、子が宿る胎を奪(うば)いとるという意味から、先人の発想や形式を利用しながら、自分独自の作品につくり直すこと。
また、政策で言えば、幣原喜重郎による国際協調路線、あるいは金解禁、そして普通選挙の実施(ロシア革命時期と重なり社会主義勢力の勃興を許した)、治安維持法の設置、護憲運動など。しかし、明治の栄光を背負った大正の政治家たちは失敗しました。
これが、大正時代だったということです。
確か、歴史の教科書では明治も含めて、国会開設、自由民権運動がさかんになって、政府はその動きに抗することができず、やむなく普通選挙を実施することになったが、その代わりに治安維持法も成立させた。このファッショ的な流れが昭和の戦争につながっていった、と書かれていたと思います。
実際は、明治の戦争に勝利したあと、空虚感があって、その隙間に入り込んできた欧化の強い流れに押し流され、なんとなく(幕末明治ほど意志を持った換骨奪胎を行うことなく)、新しい政策を行ってしまった。大正はそんなお粗末な時代だったようです。
「国民の文明史」を読む(6)(終わり)