司馬遼太郎の作品を読みつつ、考えています。
前回は「明治という国家」でした。
で、この続編?として「昭和という国家」(1989年9月、日本放送出版協会/NHKブックス、新版2018年)があります。
「日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。」
軍部官僚が言う「統帥権」という言葉と力。それが、昭和の時代には充満して、国家や社会をふりまわしていた、と司馬は言います。なぜ「日本国の胎内にべつの国家~統帥権国家~ができた」のか。なぜ「昭和は、滅亡に向かってころがっていった」のか。
それを論じています。
しかし、読後の自分の気持ちは、その”なぜ”に対する答えが明確になっていない。なんともいえない、重苦しいものでした。司馬が、あの時代を、実際に生きてしまったために、客観的に考えられない、ということなのかもしれませんが。とにかく、昭和を毛嫌いしている印象を受けました。そこだけは、昭和の初期だけは、別のところで考える必要があるようです。でも、それがないとなると、終戦以降、現在にいたるまで、根本のところで考えられないし、また、これから日本人として何を基本にしてゆけばいいのかも考えにくい。なんともいえない消化不良の状態になります。
もう少し、司馬の本を読んでみます。
司馬遼太郎のこと(11)(終わり)