Blog 真っ青な空

企業を定年退職したエンジニア、科学技術コンサルタントやってます。

司馬遼太郎のこと(6)

司馬遼太郎のこと、のつづきです。

 

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幕末から江戸時代に逆戻ってみます。

 

菜の花の沖」、江戸時代の廻船商人である高田屋嘉兵衛を主人公とした歴史小説

http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/kokugo/nanohana_text.HTM

嘉兵衛は明和6(1769)年、淡路島の農家の長男として生まれる。11歳のとき自らの意志で奉公へ。22歳のときに兵庫(神戸)に出て、水主(かこ)となる。寛政四(1792)年、24歳で、ふさと結婚。やがて沖船頭(船の責任者)となり、冬の荒海を紀州の新宮から江戸まで、材木を筏ひとつで運搬したこともあった。兵庫第一の廻船問屋・北風荘右衛門の信頼を得たことも力になり、28歳で1500石積みの巨船「辰悦丸」を建造、念願の独立をはたす。その年、嘉兵衛は真新しい辰悦丸で蝦夷地へ向かう。辰悦丸による兵庫との往復は年一回だったが、その利益は大きく、二年後には持ち船が五隻になっていた。

寛政11(1799)年、幕府が東蝦夷地を直轄地とした。嘉兵衛は安全な航路を開拓したり、新たな漁場を開いたり、アイヌの民に漁法を教えたりした。その功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。
 
ちょうどその時、ロシアは南下政策に伴い幕府へ交易の申し入れを迫ったが、その返答は意味もなく引き延ばされ、業を煮やしたフヴォストフ海軍大尉などの日本人に対する暴行事件が起こる。幕府のロシアへの感情は悪化し、結果的に観測船ディアナ号を拿捕する事件へと結びつく。世に言うゴローニン事件(文化8年)である。文化8(1812)年、嘉兵衛はゴローニン事件に巻き込まれ、ロシア船ディアナ号のリコルドに捕まり、カムチャッカへ連行される。日本とロシアの間で起こった事件解決のため、その人質とされたのだ。異国ロシアでの拘留生活が生む苦悩と葛藤、仲間の死。しかし嘉兵衛は、これまでの人生の中でつちかった「みな人ぞ」の精神で、ロシア人たちと接し、互いの心の壁を溶かしていく。そして嘉兵衛はリコルド少佐といつしか強い信頼で結ばれるようになり、こじれきった日露の橋渡しを自ら担おうと決意する。見事な交渉で日露の紛争を平和裡に解決。幕府との交渉のため日本へ発つ日、甲板で鈴なりのロシア人船員たちがいっせいに声をあげる。「タイショウ!ウラー!」嘉兵衛は荒波の交渉へと乗り出していく。のち、郷里・淡路に帰り、隠居。文政10(1827)年、59歳で波乱の生涯を終える。・・・というあらすじ。

 

やはり、思うのは江戸期の日本人の良識ある姿。主人公の嘉兵衛は、人望のある日本人として描かれ、その人望はロシア人をも感動させた。1827年死去ということなので、江戸時代に培われた教養の結晶が嘉兵衛であり、その結晶は、今まさに訪れようとしている幕末の動乱と明治維新への展開。そのベースになっている。そんな気もしました。

 

司馬遼太郎のこと(6)(終わり)