このブログの趣旨である科学技術とか、環境とかの話とはぜんぜん違うのですが、
歴史小説家の司馬遼太郎(1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日))について書いてみます。
ほぼ、自分の趣味の領域(歴史好き)で、とっても好きな歴史小説家。
でも、この方の作品が今の日本人に少なからず影響を与えているように思えるので。
今まで圧倒的に読者に支持されてきたのですが、没後20年余りを経て、最近は、批判的な記事も出ているようです。
そんな批判の一つ・・・引用します(但し、小文字は自分のコメント)
「組織に属しながら、心は坂本龍馬」という生き方は、司馬の作品を愛読するビジネスパーソンの理想像と見られてきた。
そして、司馬の読者は、こうありたい、と思ってきた。自分もその一人。
(司馬の小説の発表時期は1959~1990年代)
司馬の作品を見ると、上り坂の人間か、あるいは滅びていくことがわかっていて、いかに格好良く死ぬかという人物が書かれています。けれど、体制がある程度、固まり、次の手を打たなければならないところで、さて、どう打つかという段階の人間は書かれません。
それは確かにそうですね。司馬の作品はほとんど読んでいますが、戦国か幕末物が多い。そして輝く明治と、暗黒の昭和という意識。それが司馬遼太郎ですね。昭和をどう決着させるのか、その答えは示されていないように思います。
国が行き詰りながら、滅びるまでにはまだある段階で、どういう目のつけどころをしていけばよいかという意識を、おそらく司馬は持っていなかったのではないでしょうか。
日本人は、司馬のもつ庶民的合理主義的なものに頼り、組織の中にいながら、気持ちは信長や龍馬という生き方では立ちゆかない時代が、とっくの昔に来ているのに、司馬の提示した以上の価値観を、見いだせずにいる。
庶民的合理主義とは、例えば坂本龍馬。龍馬は自分で革命を起こしながら、革命政府の一員にはならず、民間組織である海援隊のリーダーにとどまろうとしたこと。その一方で、昭和の軍部の考え方が「官僚的非合理主義」。司馬には、損得勘定のはっきりした民間人の商売感覚、つまり儲からないことはやらないという「庶民的合理主義」があれば、「官僚的非合理主義」に凝り固まった軍部の暴走は防げたという考えがあった。
・・・・引用終わり。
なんとなくですけど、この司馬遼太郎という巨人に対する批判。
正直、かすっている程度、かなと思います。
司馬が、自身の体験により昭和の戦争の話になると、暗黒となってしまう。あまりにも悲惨なので、幕末から輝く明治は描けても、その結末である昭和は描けない。それが司馬の限界である、という説にはうなずける。
今は、庶民的合理主義的なものに頼り、組織の中にいながら、気持ちは信長や龍馬という生き方では立ちゆかない時代なので、司馬の小説からはそんな今の時代を生き抜く答えは見つけられない・・・そうかな? これはそう思わない。
この批判者は、最後のところで、
江戸時代の小政府に学ぶべき、と言っています。
これは自分も同じ意見です。
ただ、この意見、司馬の本をよく読むと現れてくる考えなのです。
司馬の作品から、この批判者と同じようにこれからの日本、あるべきふるまい(科学技術も含めて)を考えてみたいと思います。
司馬遼太郎のこと(1)(終わり)